祖母の自殺から学んだ”相談”の必要性

祖母の自殺から学んだ”相談”の必要性_イラスト

祖母は私が15歳の時に、自ら命を絶ちました。
当時まだ中学3年生で、おばあちゃんっ子だった私には、あまりにもショックすぎる出来事でした。
とても優しい祖母で、家に遊びに行ったときは近くの定食屋さんでラーメンの出前を頼んだり、祖父が健在だったときは格闘ごっこをさせてもらい、その様子を祖母はいつもニコニコと見守ってくれていました。
ですが、祖父が肝臓がんで亡くなり、数年後に曽祖母も亡くなり一人暮らしになってしまったことで、孤独だったのでしょう。

その日は私が高校受験の日で、友達と一緒に自転車で受験会場に向かっていました。
途中、祖母の家の辺りを通ったのですが、遠目に祖母の家の前に救急車が停まっているのが見えたのです。
友達にも「おばあちゃんの家の辺りに救急車が停まってる…。」と言いましたが、受験の時間ギリギリで、友達からも早く行かないと遅刻するよ、と急かされてそのまま受験会場に向かいました。
遠目だったこともあり、まさかその救急車が本当に祖母の家の前に停まっていたとは夢にも思わず、帰ってから訃報を聞いたときは、ただただショックでした。

祖父の親族からのイジメや、自殺未遂も何度かあったと聞いたのはすべて、後のことでした。
母親も叔父も、近くに家族が住んでいたにもかかわらず、優しかった祖母の生涯は自殺、孤独死という形で終えてしまったのです。
未だに私はあの時に何かできなかったのだろうかと、せめて救急車が停まっていた時に駆けつけて、声を掛けてあげることはできなかったのだろうかと、「未完了」の感情をずっと引きずっています。

なぜ”相談”が必要なのか

あの時の自分に何ができたのだろうか?と、ずっと自問自答してきました。
ですが、こうして振り返りながら、ようやくその答えが見つかったと感じています。
それは、ただ祖母の相談に乗り、話を傾聴すること。
つまり、死にたいと思うほどのつらい気持ちを安心して吐き出してもらい、重荷を軽くしてあげられる場所を用意することだったのではないか、と思います。

当時の私は、まだ中学3年生。
大人の事情なんて難しくてわからないし、話してもらっても、聴ける自信がない…。
子どもの私に、できることなんてなかった、仕方がなかった、と思うようにしていました。
ですが、どこか腑に落ちないまま、ずっと引きずっていたのです。

祖母が亡くなる1週間前に、私はいつものように、祖母の家に遊びに行っていました。
ラーメンの出前を頼んで、祖母の家にあった某人気漫画の単行本を読んで、さぁ帰ろうとなった時、祖母の背中がとても寂しそうに見えたのです。
なんだか祖母が愛おしく思えて、肩を揉んであげた時に、「ありがとう」と言ってくれたのは、いまでも覚えています。
きっと、必要だったのはその先の声掛けで、「どうしたの?」「何だか寂しそうに見えるよ?」と声を掛けることができていたら…。

私は学校でも、社会にでてからも、どこかで人の話の”聴き方”を教わった覚えがありません。
もし、カウンセリングやコーチングの勉強をしていなかったとしたら、”聴き方”について学ぶ場は、どこにもなかったのだと思います。
それでも私は家族や友達、あるいは職場の同僚や部下からの相談を、自分なりに一生懸命、聴こうとしていたでしょう。
しかし、これは“聴く”ことの「無免許運転」だと私は思っており、多くの人が悪意なく自己流で”聞く”ことで、人の話を”聴いた”つもりになっているのではないでしょうか。

聞くと聞くの違い

もしも学生の段階から、あるいは社会に出て会社の社内研修などで、傾聴やカウンセリングの入門編でもいいので“聴き方”を学ぶ場が当たり前にあれば、世の中はもっと良くなるのではないかと感じています。
それは、心理的安全性があり、誰もが自分らしく生きられる世の中を創ることに繋がると、私は信じています。

日本には昔から「我慢が美徳」という価値観が根付いているように思いますが、祖母は一人で抱え込んだ結果、自殺という形でこの世を去ってしまいました。
我慢を美徳とする価値観も一つの正しさだと思う一方で、いまは「ウェルビーイング=心と体の健康」が唱われる時代でもあります。
身体の健康を維持するために適度な運動で発散するように、心にも発散する場所の選択肢として”相談”をする場が必要だと、私は考えています。
そこに必要なのは技術でも経験でもなく、聴き手が話し手のことを自分の価値観ではなく、“相手の準拠枠”で聴き、共感する…そんな場があるだけでも、“生きづらい”という気持ちは軽くなるのではないでしょうか。

いま、このページを見ていただいている方に伝えたいこと

いま、このページを見ていただいている方の中には、死にたいと考えている人もいるかもしれません。
気持ちがわかるなどと大それたことは言えませんが、私も一時期は同じことを考えていたので、僅かばかりかもしれませんが、理解はできると思っています。
ですが、遺された人の悲しい顔や、「何かできなかっただろうか」と葛藤して苦しむ姿を、あなたは見たいですか?
そして、死にたくなるほどの気持ちの奥に、一体なにがあるのでしょうか?

また、中には死にたいと考えている本人ではなく、家族や友人からそう言われた、という人もいるのではないでしょうか。
きっと、何とかして防ぎたい、と思っていることでしょう。
そのためには、まず死にたいという言葉の裏側にあるその人の想いを、本人になりきるつもりで、ただ聴いてあげてください。
「何を話しても大丈夫だよ。」「何があっても私は味方だよ。」と心から想いながら隣に居続けることで、その人の気持ちは少しでも軽くなるはずです。
「つらかったんだね。」「苦しかったね。」と、ただ共感しながら、話を聴いてあげてください。

私は、祖母の自殺によって生き方が変わったのではないかと感じています。
いまの自分は胸を張って生きていますが、ふとした瞬間に、自分のやっていることは贖罪なのではないか、と思うことがあるのです。
そう感じている時はつらい気持ちになり、時には涙も出てきます。
ですが、そう感じていること自体、祖母が浮かばれない、とも思います。
この葛藤は生涯、抱え続けていくのでしょうし、それは祖母のことを忘れずに想い続けることでもあるのかもしれません。
きっと、それが家族として、おばあちゃんっ子だった私の務めなのでしょう。

自殺は周りの人に対して、想像以上に深い爪痕を残します。
死にたいと思う気持ちそのものは、きっと本人にとっての正直な気持ちなので、否定できるものではありません。
ですが事を起こす前、そして起きる前に、周りの人や、第三者の専門家に相談してみてはいかがでしょうか?
まずは気持ちを吐き出してみることで、少しスッキリし、生きづらい気持ちが軽くなるかもしれません。

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